*証明写真*      

 マイナンバー「顔写真付き個人番号カード

運転免許証、履歴書、各種試験用、パスポート 用など大切な証明写真もポートレイトライティングで!   

   当スタジオは公的証明写真                          撮影資格認定店です。

          矢吹尚也 写真展

      「AURA-アウラー」

     視ることによる変容ー

       2017年3月1日~31日 開催

      

歌集「叙唱 レチタティーヴォ   阿部久美氏 第三歌集(六花書林)刊行  矢吹尚也 写真       

 カバー、表紙、口絵を担当した            短歌集「叙唱 レチタティーヴォ」阿部久美氏第三歌集が六花書林より刊行されました。 




hajime ライヴ         「無音の色彩」 ポスター。

当スタジオでヴィジュアルイメージを担当するミュージシャンhajime Live in 稚内! (イべントのイメージ動画は下記URLより)

  hajime ライヴ「無音の色彩」

イベントのイメージ動画    https://www.youtube.com/watch?v=-ZPfSYPFJ00&feature=youtu.be     

Message

建物のコンセプトはジェームス・タレル「オープンスカイ」のようなスタジオ

リニューアルのきっかけは直島の地中美術館

 スタジオをリニューアルしようとしたのは、建物が古かったということもあるが、2006年6月に、瀬戸内の直島にある地中美術館を訪れたことが大きなきっかけとなっている。最近では島をあげてのアート活動が話題となり、ご存知の方も多いのでは?と思う。
 その美術館で、ジェームス・タレルの作品「オープンスカイ」にひときわ強い感動を覚え、周りの妻や子どもたちに、「3年後に、こんなスタジオを建てるぞ」とついつい宣言してしまった。
 そう宣言はしたものの、建築するような具体的な話など何もないままに迎えた2009年の元旦。20年ぶりに、大学時代の友人である建築家から卒業以来初めて連絡をもらった。運命的なものを感じてその場で彼に設計を依頼した。
 そうしてスタジオが完成したのが2009年11月。「3年後にスタジオを建てるぞ」と宣言したときから、ギリギリ3年(?)でリニューアルオープンの日を無事に迎えることができた。

リニューアルしても変わらないもの


 実は今年の2月末に、作業中、脚立から転落して怪我をした際に、フィルムの交換ができず、フィルムカメラでの撮影が困難となった。そこからデジタルカメラでの撮影に切り替えたのだが、時期がたまたまリニューアルと重なり、いいタイミングで切り替わったのではないだろうかと思っている。
 撮影方法自体は、リニューアルしてもデジタルになっても何も変わってはいない。フィルムの時と同じように色温度と露出だけは正確に合わせることを心がけている。

ウイリアム・ブレイクの詩のように・・・


 当店のコンセプトとして、スタジオ入口のガラスに刻まれている英語の詩は、詩人であり、版画家でもあるウイリアム・ブレイクの一節なのだ。

「TO SEE WORLD IN A GRAIN OF SAND
AND HEAVEN IN A WILD FLOWER
HOLD INFINITY IN THE PALM OF YOUR HANDS
AND ETERNITY IN AN HOUR」

「一粒の砂の中に宇宙があり一瞬の中に永遠がある。」
という内容である。

 この言葉は、写真の表現手法にも共通するもので、シャッターが下りるその瞬間を、永遠の時間の中に存在する記録として残せるように、という思いで、撮影していきたいと考えている。

協同組合日本写真館協会会報 ザ・写真館 Vol.64

※画像をクリックすると詳細をご覧いただけます。(PDF形式)

フィルムからのプリントは「何か」を表現するための手段だ

 従来の写真をアナログ写真と呼ぶのか、ということは別として、「デジタル写真」対「アナログ」写真ではどちらが良いのか? という視点で「写真」について考えさせられる機会が多いのですが、最終的な目的が出力されたプリントである場合、モノクロ からカラーへという大転換と比較すると、写真そのものの価値観が変わるほどの変化ではないと思います。
 プリントを作るために使われるものが、フィルムであれ、デジタルカメラであれ、プリントされた「写真」が目的にかなう質の ものであれば、入力、撮影段階の方法は何であっても良いと思います。像を取り込んで、最終的に紙にプリントするという行為そのものは、デジタルになっても何も変化していないし、作る側の心理や動機には関係してくるでしょうが、その影響は写真の内容そのものには届かないと思います。
 メロディーが完成していれば、アコースティックギターで弾いても、エレキギターで弾いても、メロディーそのものは同じで あることにも似ていると思います。
 プリントが目的の場合、デジタルとフィルムで質的に差が出ることはあっても、目的によっては問題にならない程度のものを 作ることも可能であるにもかかわらず、なぜ利便性の良いデジタルを現状では使わないのかというと、プリントの良否以前の、 撮影時での意識の違いがあるからだと思います。
 フィルムに定着された画像そのものが基準と基準となるものであり、撮影時にこのフィルムにはこう定着され る、と確信を持つことができ、フィルムに定着された画像そのものが、プリントに至る流れの中でも、その本質は変えることが 出来ない撮影の時点での一回性、記録としての写真の重要性を感じさせるからだと思います。
 フィルムがそうであったように、記録メディアは進化し続け、デジタルでの写真が主流となるでしょうが、言葉や文字が意思を 伝えるだけの道具から、演劇や文学になり、映画はテレビが出現したことによって、スピードや利便性を失いましたが、むしろ そのことによって芸術性を獲得し、モノクロ写真はカラー写真が出来たことで記録という役割を終えて、表現することがメインと なっていったと思います。
 デジタル写真が出来たことによって、スピードや利便性やコスト面などで、カラーフィルムの役割は終わったのかもしれませんが、 メディア(伝えること)としての役割を終えたものから表現の方法として成り立つのなら、カラーフィルムからのプリントは、 むしろデジタル写真が実用となったことで、「何か」を表現するための手段になったのではないかと思います。
 ケータイやデジカメを始めとして、誰にでも簡単に写真を写すことが出来、誰でもが使える文字や言葉と映像が、同じレベルに なっている今の状況でこそ、1枚の写真をつくることで何をどのように撮影し表現するのかを、シャッターを切る前に考え、デジタル とフィルムの選択を、何が目的かによって使い分けることの出来る道具として考え、使っていきたいと思っています。

協同組合日本写真館協会会報 ザ・写真館 Vol.45 掲載

※画像をクリックすると詳細をご覧いただけます。(PDF形式)

作画姿勢 「バランスの真ん中へ」

  写真を写すことを仕事として、プロの撮影者として撮影する場合、「何を写すのか」は、当り前のことですが、既に決まっていることがほとんどだと思います。
 しかし本来、写真において最も重要なのは「何を写すのか」を選択することであり、その次にその選択したものを「どう写すのか」ということを技術的な面も含めて考えていくという順序になると思います。
 しかし、お客さんを写す場合、自分(撮影者)が、写すものを選択することはなく、自分の意志で選んだものを写すという大切な部分は既に決まっていて、「どう写すか」という状態からスタートしてしまうことが多く、自分自身が、その主題(お客さん)を選択したという状態、その人を写したくて写す、という状態まで気持ちを持っていくことが、撮影する以前に最も大切なことだと考えています。そして、自分の意志で選んだ主題(お客さん)を、自らが選んだ方法で、自分の考えによって撮影できる状態をつくり、自分自身がこう写したいと考えた「何か」と、お客さんが「こう写されたい」と思っている写真との接点を見つけることができれば、と思っています。
 ただ、その接点を見つけだす作業も、最初からほど良い所、ちょうど良い所、適当に良い写真というのは簡単にあるものではなく、上下左右があってはじめて中間ができるように、両端から引き合う力によって音が出るギターの弦のように、写真にも両端から引き合う力のようなものが必要なのでは、と思います。
 たとえば、F1のレース用の車で考えてみますと、目的は速く走ることであり、そのための技術はメーカーの大衆車への還元とされる。それと同様に、写真をつくる場合においても、その一つのポイントだけでも特化させ、一般の撮影に応用していく。
 F1の車そのものは、公道を走ることは出来ず、お客さんからの注文があってつくられたものではないですが、メーカー(技術者)が、速く走るという目的のために、自らの意志でF1カーをつくったことによって得られた技術は、後に一般の乗用車への技術として売れ、F1のレースを見た観客には感動が残ると思います。
 自分が写真をつくる時にも、お客さんからの依頼が無くても、自らがつくりたいと思った写真をつくり、それによって得られる技術や感覚、その写真がお客さんの眼にふれた時のお客さんの反応などを、お客さんからの依頼で、お客さんが「こう写されたい」と思う写真をつくる時の技術として活かせるようにと考えています。
 そして、意識としては常に中間点(上下左右から引っぱられている感覚で)に立っている気持ちを持てるように、バランスをとりながら、撮影していきたいと思っています。 

写真文化 2006年9月号掲載

メタファーとしての肖像

 写真が様々な概念に関する画像であるとすると、概念なしで写真を撮影することはできない。
 写真の視野に何かを、それが何であろうと示すということは、そこに隠されていることを示すことに他ならない。
 人物が主題となっている写真で、その写真に普遍性を感じることのできるものを肖像写真とするなら撮影者がある人物を撮影し、何かが表現されているものとしての写真をつくる時、写真という表現媒体の持つ記録性との葛藤が生まれてくる。
 そこに、今いる人物を撮影し、写真にする時、そこにその人物が存在したという単なる記録としての写真となるのか、その人物個人としての存在をつき抜け、第三者にとって見知らぬ人物が写っている写真であるにもかかわらず、普遍性を感じ得るものになるのか、その分岐する場所となる撮影者の意図と目的は多様だが、方向は大きく別れていく。
 18~19世紀の標準的な肖像画のように、その主眼が描かれた人物の理想を具体化すること(容貎、社会的地位など)である場合の手法と、全く同一の方法論で撮影された肖像写真と、目的がその人物そのものの描写ではなく、その背後にあるものを表現しようと試みている写真である場合とでは、主題は同じであっても表現としては両極にあることになる。
 前者が、でき上がった写真が撮影者の主観的意図に邪魔されることのないよう、撮影された個人を描くとすれば、後者は、良質の風景写真が実は「内的風景」であるように、他者のポートレイトは、どれも撮影者の自画像となり、常に何かを暗示するメタファー(象徴)となる。
 例えば、アウグスト・ザンダーが撮影したドイツ人の目録のような一連のポートレイトは、種々の職業、階級の市井の人々を撮影したもので、そのほとんどは正面を向き、レンズを見すえたものであるが、そのリアリズムにもかかわらず、全く抽象的であるのは、ザンダーが人々をその個人各々ではなく、一定の階級や職業の背景をもった「代表」として撮影しているためである。ただ、その方法論としてどのような対象とも距離を置き、内面に踏みこむことはない。
 また、ナダールは「私が一番よいポートレイトを撮るのは、私が一番よく知っている人物だ」といい、アヴェドンじゃ「良いポートレイトの大部分は撮影する時に初めて会った人たちのもので、写真には人間にはないリアリティがあり、私が彼らを知るのは写真を通してである」と述べている。
 写真を撮るためには、対象についてどの程度詳しく知る必要があるのか、写真を撮ることは意識的な正確な行為か、知性以前の直感的な行為か、全く違った2つの解釈がある。この2つの全く違った行為の均衡を保ち、写真が「偶然」には写らないものであるのなら、フィルムに露出がされる瞬間かそれ以前に、撮影者の中に明確なイメージがなければならない。この矛盾した、直感的なイメージを正確に具体化する過程の中で、ただの「現実」から少しはずれた、人間の肉体をとおして何かを表現できるような写真について考えている。

写真文化 2001年1月号掲載

 写真によって何かを表現しようと考える時、その動機の対象となるものと撮影者の関係で写真が成り立っている以上、そのどちら側を抜きにしてもその表現は成り立ってはいかない。しかし、第三者が写真を、例えば「美しい何か」が写っている写真を見て「ああ、きれいだな」と思う時、技術のある写真家の撮った「美しい何かについての美しい写真」への感動のなのか、「写真に撮られた美しい何か」への感動であるのか、非常にあいまいである。
 写真という方法は常に対象となる何か、「美しい風景」や「個性的な人物」「何らかの事件」などに置き換えることで表現され、成立する。その対象となるものだけでは表現することはできないし、写真のみでも表現は不可能である。自分にとって未知の人物が写真に写っている場合、その人物が今現在、その写真を見ている自分と同じ時間や空間に存在している人物では無いと理解していても、その人物がその人物そのものに違いない存在と感じることができる。写真によってイメージ化されるのは単純な外界の複写ではなく、撮影という行為によって自己以外の世界と関わろうとする撮影者の意図や精神性が写り込んでくる。
 また、写真の対象は現実の世界のみではなく、内的で幻想的な領域にも及び撮影の段階やフィルム・印画紙に加工を加えたり、デジタル処理などで現実を幻想化することもできるが、対象をストレートに撮影したとしても印画紙の表面に定着されたイメージは、すでに現実とは異なった色を帯びている。
 
 写真には内面と外界、自己と他者、幻想と現実、それらを混ぜ合わせ、リアルな非現実として、架空(そこに無いものとしての)の対象について想像させ、心象的なものにする機能がある。そして、その架空の対象を強くイメージさせる影像が写真としての現実性を持つのではないか。写真は表面的なものを捉えるとともに、そこに写っているものの背景を象徴し、それが意識を強く刺激する対象であるためには内面の象徴として表現されていなければならないが、写真が対象と撮影者で成り立っている以上、写す側と写されるものが一致しているわけではなく、他者との間の越えられない溝と他者から自分に返ってくる感情や印象、さらに存在そのものを認識させられるような様々なものの複合的表現になるのではないか。
 撮影において自分の中にある具体的なイメージを写真にしようとする場合、特に人物をそのイメージどおりに表現しようとしても、自分の思った状態とは少しずつ離れていき、最初のイメージと定着された写真とは大きく違っている場合が多いが、自分のつくり上げたイメージを正確に準えようとする中で生じた「ズレ」の中に何かがあるのかも知れないと想像している。

写真文化 2000年12月号掲載

ウイリアム・ブレイクの詩の一節
有限会社 矢吹写真館

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〒097-0022
北海道稚内市中央2-4-1(Map)
[TEL] 0162-23-3805
[FAX] 0162-24-3805 

「富士フィルム営業写真コンテスト2017 受賞作品」

 「アラウンド・セブンティー」      

 大人ポートレイト部門 受賞作品

蝦名摩守俊「カルマ」ジャケット。photo by yabuki  

 当スタジオでジャケット等の撮影を担当した蝦名摩守俊氏ファーストソロアルバム

  ニューボーン、うまれたてを残そう!   

PHOTO JAPAN誌 掲載 

   「 PHOTO JAPAN 」誌        JCPA本商業写真家協会)発行                   に作品掲載

  写真展  MOVIE   URL      https://youtu.be/fTTJme-Ws2o